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質疑応答

A:
健常者のAといいます。こういう言い方をすると怒られるかもしれないですが、「どっちつかず」ということはどっちもできた、二つ味わえるということなんで、健常者のなかで障害者をうまく使ってうまいことやったなとか、障害者のなかにいて健常者的扱いわれてよかったなとか、人生2倍に楽しめるというか、よかったところを教えていただきたいと思います。

横田:
2倍楽しめるといわれても、私はべつにずっとどこにいてもかわらない人間でしょう。それを健常者に見るにしても障害者に見るにしても、それは相手が決めることではないでしょうか。「あなたは健常者なのにどうだ」とか、「障害者なのにどうだ」とかいうのは相手で、私ではない。本当は自分そのままでいけたら一番いい。どっちかのふりをしたりする中で得したっていうのは今のところ思いつきません。

長谷川:
横田さんと同じになってしまいますが、べつにどっちかを渡り歩いているわけではなく、健常者のふりをせざるをえないときは、そっちの方が自分のなかで精神的に楽だからそうしているというか、せざるをえない状況のときもあるんです。私の場合は手帳を持っていますから障害者である長谷川もいて、それを2倍楽しんでるっていわれるとちょっと厳しいものがあると思います。
手帳もちでよかったと思えるのは、私すごい旅行好きなんですね。弱視なので行動の自由もわりときくし、手帳があるから運賃とか半額になるから、得かなぁって思うのはこれくらいかな。

A:
私の職場に仕事に大変厳しい人がいて、その人が「仕事ちゃんとして帰れ」「おまえの仕事やろ」ということをいったり、何回かいっていて、それで「1回いったら、もうわかるだろう」と突き放されたりしたことがあります。
例えば健常者が1日8時間でできたものが10時間かかる、ないし12時間かかる。そしたら、結局他の人より4時間長く働いたとすると4時間は遊べない。遊ぶわけではなくてもちゃんと仕事をしないといけないのか。それとも8時間でやめられるような仕事の状態でいいのか。例えば健常者の人が8時間で働けるところが12時間働かかるということになったら、4時間ずっと同じ給料をもらって仕事をしないといけない。残業手当はひょっとしたらもらえるかもしれませんけど、そういうのが障害者にとっていいのか、やはり8時間は8時間であと楽しめないとおかしいという話も、もちろんそのとおりだと思います。私のまわりでも、「仕事はちゃんとせなあかん」という人ともう少しボルテをへらすとか色んな方法が多分あって、そういう配慮をする方がいい場合がある。どっちがいいのかは、ケースバイケースなんですが、健常者の人たちがどういうふうに思うのがいいのかおききしたい。
先ほどの秋風さんの話からすると、変に車椅子とかを丁寧に押されたら、逆に特別扱いされすぎるのもきっとあまり好きではないのかなと思うんです。その辺はみなさんどう思われるのかな。こちらの方は感想というか、私もどれが一番いいのかというのはよくわからないんですけど、どんなふうに思われるかちょっと教えていただきたいなと思います。

秋風:
手動車椅子の人に特別な視線というか、そういう人にはとても優しいという話をしたので、そういう発想をされたと思うんですが、私の職場で見てる限り、車椅子の人に対しても、私に対しても、全盲の女性に対しても適切な対応というのは見たことがないように思っています。あんばい加減がいいというのはなかったように思うんですね。最初に田垣さんが話されたことに通じますが、「この人、障害者だから」と意識したとたんに、過剰に反応しちゃうということがどうしてもあると思います。接してる態度のなかで、これが自然であんまり意識をしていない方だなというふうに思った方、そういう対応はあまり見たことがないです。
時間の話は、どっちがいいのかといわれても、これは答えにくいです。私自身は座ってしまえば、(仕事をこなすのに、障害は)ほとんど関係ないので、あんまり時間的なことというのは(考えたことが)ないんです。
ただ、障害の話だけではなく、男女差別の話をしましたが、私たちの時代は男並に働かないと(おいていかれる・仕事をなくす)という発想があって、それにとらわれていた時期がありました。男並に働いて、同じように評価されて、同じ給料もらって、というふうに思っていました。やっぱり、そういうことは残ってるんですけど、でも今は、この不況になって、だから余計かもしれませんが、男の方が女並に働けばいいのではないかと思っています。働きすぎるのがいいことかどうか。
私が働いていた場所でも残業がとても多かったんですが、ダラダラと仕事するというのもあったり、残業は決していいことと思わないんです。障害者並みに働くというと、障害者の基準はどこに合わせるんだということもあるんでちょっと違いますが、そんなにギチギチに働かなくてもいいんじゃないかなという頭がどっかにあります。答えになっているかどうかわかりませんけども。

長谷川:
時間に関しては、これも私の方でも結論はでないです。私はだいたい月に残業50時間はやっています。さっきもいいましたけれど、特別扱いを受けているわけではなく、完全に一戦闘力としてカウントされており、視力が低いことで処理するスピードが遅くて残らざるをえないということではなく、私が今やりたい仕事で残っているから特に苦には感じないです。その人が仕事に対してどういうスタンスでいるかじゃないですかね。私のことでしかいないですけど、もし仮に私が「障害者だから特別に残業しないで帰りなさい」といわれたら逆につらいと思います。

B:
視覚障害者の弱視のBといいます。今日初めて話をうかがって、私も軽度障害者といるかどうかわからないんですが、みなさんにとってやすらげる場所だということがわかりました。
障害者に対するヘルプのお話があったんですが、「本人にあったヘルプをするのは難しい」というお話がありましたけれども、私は弱視なんですが人といたときに、視覚障害者がくるということがまわりの人がわかっていたので、私がいくと「そこになになにがありますよ」とすごく丁寧に教えてくれました。私はほんとはそれが見えているので、私にはいらないヘルプなんですが、そうやっていって下さるというのはうれしいことで、それが重荷になると思ったことは今のところありません。
甘いものが好きなんで、お店にいってケーキを買いたいんですが、いっぱい名前があって、わからないんです。もう少し若いころは適当にケーキを選んでいたんですが、思いきってお店の人に「これは何のケーキですか?」ときくと、わざわざこっちの方まででてきて「これは何で、何が乗っています」とか説明してくれます。内心では「わかった、わかった」と思うんですが、そうやって説明してくれることが、私にとっては、ありがたい、うれしいのです。障害に対して、そこまではいらないとか、もっと説明してほしい、とか色々な状況があると思うんですが、そういうときにどういうふうに感じられますか。
仕事をしているときは、自分は何ができて何ができないか説明する責任があると思うんです。職場や日常生活で助けてもらわないといけないことがあったりすると思うんですが、必要以上にヘルプされたときに、どういうふうに感じられるかを、ちょっとおききしたい

秋風:
先ほどお話しましたけれども、私はつい半年くらい前までは2本足で歩いてたんで、つい最近ヘルプを受けるようになりました。
それで、面白いことがあるんだなと思うんですが、ご自分の腕で支えてやろうと思って下さったのか、背後から杖を取り上げられたことがあるんですよ。これ、危ないんですね。私にとっては過剰なヘルプというより、ただ勘違いされてるんじゃないかなと思うことがあって、そういう経験があります。だから過剰なヘルプって、どこまでをいうのかなと思いますが、歩けない、歩くのが困難だということを正確に理解していただきたいなといつも思っています。水をさすような言い方してごめんなさい。

横田:
私はヘルプを受けるというのはほとんどありません。
先ほど、仕事をするとき「自分の状態を説明するのが責任」といわれましたが、私ら隠れていく者にとってはつらいですね。色んなところで話したことですが、去年プールの監視員やっていたんですが、目が悪いっていませんよね。「何時までね」とか「プールで泳いでいる人に時計をはずしてもらうように」といわれて「はい」というしかない。「それ、見えませんけど」なんていったら、クビになってしまう。場合によるかもしれないけど、隠して入ってしまうとつらいし、「責任だ」というのはつらいです。
過剰なヘルプですが、どっちかというとヘルプする方が多いので、そのときはどうしてほしいかをききます。杖をついている人が階段を上がるとき、「手を貸して」といわれれば、手を貸します。抱えたりしません。やはりその人にきくのが一番いいと思います。困ってる人がいたら、いいやすいようにするのがいいんじゃないかと思います。

田垣:
過剰なヘルプかどうかわからないようなヘルプがけっこうあります。僕は右手で重いものを長時間持つことがとても苦手です。例えば、パソコンに部品を自分でつけなければならないときに、同僚に手伝ってもらいました。「ああそういえば田垣さん、手が悪いのだよね」と、タワー型の大きなパソコンの本体の重たいところをわざわざ持ち運んで、作業をしやすいように手伝ってくれたのです。
実はタワー型のパソコンぐらいだったら、自分で持ち運びできます。でも、そのとき「いやそれは自分でできます」といおうと思ったのですけど、その場の話の流れでいえませんでした。また、過剰なヘルプなのかどうか判断しづらい場合の反応がわかりません。ただ、だからといってべつに悩んでいるということはないですね。

長谷川:
私も日常生活や職場で過剰なヘルプを受けることは、あまりないですけど。プライベートで、たまたま知り合った人が私が目が悪いっていうのをしっていて、時々あるんですけど、ボランティアとかに参加されてた人とかだったら、「視覚障害者に対してはこういう配慮をする」っていうのを習ってきたみたいで、「じゃあ、腕を持って下さい」とかやられることがたまにあるんです。全部が全部大きなお世話ってわけではないので、「ありがとうございます」っていいつつ、断るときも「見えてるから大丈夫です」って、できるだけ明るくさわやかに断るように心がけてます。

田垣:
今から5年くらい前のことです。「ひまわり号」という障害者とボランティアの小旅行にボランティアとしていきました。当日の朝駅に集まると、ボランティアの学生さんが日程を説明していたのです。僕は、まわりがうるさくて説明を聞き取れなかったから、「もう1回説明して下さい」みたいな顔をしたんです。口にださずに。そうしたら、その学生さん、手話をしてくれたのですね。僕のことを聴覚障害者と勘違いしたのでしょう。
今の長谷川さんの話をきいていて思ったのですが、こういう場合には、こういうふうなサポートをするのだっていうマニュアルどおりに動かれると、かえって僕たちくらいの軽度の人間には、滑稽にうつります。そういうサポートが悪いとはいいませんが。
過剰な反応にも困りました。大学時代のバイトで、「僕、手が悪いのですよ」と先輩にいったら、その先輩が「そんなプライベートなことを僕に話してくれてありがとう、僕をすごく信用してくれていってくれたのだよね」とかいって感動したのです。そのバイトは、誰にでもできるような作業でした。世間話として僕は手のことをいったのです。そういう態度をとられてしまい、僕はどう反応したらいいかわからなかったです。唖然として何もいえませんでした。

司会(門田):
私は体を動かすのが嫌いなものですから、そこに過剰なヘルプをしてもらえると「ラッキー」と思ってやってもらうことが多いですね。私は左手が特に動きにくいんですけど、職場でワープロを大量に打つ仕事のときなんかは、片手でキーを叩くわけですから、人の倍以上時間がかかる。ところが、まわりの健常者は、左手が悪いことと、パソコンを打つのが遅いことがイコールで結ばれず、「サボっている」と誤解されてしまいます。説明すると、「門田にはワープロを打たすな」と、過剰な反応をされることもしばしばあります。以前、倉庫整理で重たい荷物のあげおろしする仕事に動員されたことがあり、「何で左手の不自由俺がこんな仕事を…」思って仕事してて、荷物を落としたんです。そのなかに壊れ物が入っていて、今度から倉庫整理とか、重たい荷物を持つの仕事のときには事務所にいて、留守番になってしまいました。これは僕にとって非常にラッキーでした。

C:
Cといいます。自分も「どっちつかず感」があります。
自分はエネルギー代謝異常の病気で疲れやすいので、3ヶ月前に車椅子を買いました。体調の悪いとき、遠出のとき、疲れたときに使うんです。昨日、神戸の方にくるとき、車椅子を使ってきたんです。車椅子は、それまで使ったことがなくて、駅で「車椅子です」といっただけで、神戸までの路線に、「車椅子の人が乗る」という連絡がいってしまいました。自分は歩けますので、外見は普通の健常者です。車椅子を使うときは、障害者のふりをして座ったままでいないといけないというのがとてもきつかったです。車椅子は自分の生活をうまくコントロールするために買いました。でも、車椅子に乗っているときは、「車椅子に乗っている人は歩けない人」というふうな社会の感覚も気にしなければいけないと思いました。
軽度障害の人たちは、その狭間のことを知っていると思うので、今、ここで普通に歩いていても楽です。「自分は自分」っていう開き直りっていうのは大切なのかもしれないです。「健常者」と「障害者」っていう二種類の人たちしかないような社会の価値観がいけないのかなと思います。
質問が、頭のなかで渦巻いていて、今度こういうシンポジウムがあったときは、質問を、頭のなかでまとめていきたいと思います。

長谷川:
逆におききしたいんですけど。Cさん自身はかわってないのに、先日から車椅子を使われるようになって、車椅子に乗ったことで、まわりの対応がかわったとかいうようなそういう体験ってありませんか。

C:
かなり、たくさんありますね…。

D:
いつも一緒に(Cと)でかけるんですけど、彼の障害は外から見えないので、配慮とかしてもらえないんですね。彼(C)はボランティアすることがすごい嫌いなんです。自分は配慮してもらえないのに、何で自分が、お手伝いしなければいけないんだって、すごく嫌いなんです。
車椅子に乗るようになったら、車椅子を見ただけで「障害者」ってみんなが見るんですね。だから本人ができることでも、みんなやってくれるんです。今日はずっと新幹線に乗ってきたんですけど、彼は一度も車椅子から降りずに、ずっと誘導してくれて、普段は立って歩けるのですが、ずっと座りっぱなしで疲れてしまって、時々立つんですね。周囲の人たちには「エー?車椅子に乗ってるのに何で立てるの?」と思われてしまうんですよ。「私たち(駅員)は仕事の時間内にわざわざ1人配置をへらされて、やっているのに、車椅子から降りられるんだったら、私たちが来る必要がないんじゃないか」という顔を(駅員に)されるので、(私たちは)我慢してずっと座ってるんですよ。ほんとは座りっぱなしがすごく苦痛で、時々立って、背を伸ばしたりとかしたいんだけれども、それができないのがすごいつらいんです。
今日の帰りの新幹線は障害者席を予約させられました。きたときは、自由席できたんですけど、「帰りは指定席を予約して下さい」と新神戸駅でいわれて、迷惑をかけるかなと思って、お部屋を予約してきたんですけど、そのときも最初から最後まで全部やってくれて、多分彼は家に帰るまで1回も車椅子から立てないだろうなと思いながら、短期間でこういう経験をしました。

E:
Eといいます。このメーリングリストで、「どっちつかず」の軽度障害といいますと、身体障害を軸にしたどっちつかずの軽度障害ということだと思いますが、メーリングリストには精神障害をお持ちの方も参加されているということなんですが、精神障害の場合は、波がありますよね。症状が重いときと軽いときがあると思うんですが、精神障害をお持ちの方のどっちつかずっていうのは、どういうふうなかたちでメーリングリストの課題にでてくるのかをお聞かせいただければと思います。

田垣:
精神障害の方は、過去をふくめて発言が少ないです。

F:
私は、精神障害というか、交通事故で頭に傷を負って、体に障害もあるんですけど、記憶力が悪いという障害があります。それは確かに波があって、覚えられるときと、覚えられないときがあります。
今、事務の仕事をしていますけど、人と話をしていて記憶が曖昧なところがあるので、いいかげんな返事をしてしまうことがあります。それはやはり、自分の記憶力の悪さ・集中力のなかもしれません。自分の障害を人に説明するときも自分でうまく説明できないんです。手が悪いとか、足が悪いとかじゃなくて、こういうことが覚えにくいとか、自分でもはっきりとわからない部分があるので、どうしても説明するのが難しい。もしも、自分と同じような障害を持つ人がいたら、話し合って自分の障害がわかるかなと思いますけど、自分と同じような障害の人がいないので心細いです。

田垣:
さっきのヘルプの話があったので、僕がいつも思ってることを言います。ヘルプをちゃんと受け入れる障害者は、いい障害者だというふうなイメージが世間一般には流れているような気がします。ところが、それくらいのことはできますって、ヘルプを受け入れなかったら、「あの人はまだ障害に適応してないよな」とされてしまうんです。でも逆にヘルプを求めすぎると、「あいつは障害に甘えてる」とされてしまうんです。そういうジレンマにいつもおかれていると思います。
また、具体的に何々ができないということがよくわかる障害者の人がけっこうヘルプを、してもらいやすいですね。ところが、今おっしゃった方もそうかもしれませんけれども、何ができないとか、何が不都合だっていうのが、なかなかわかりにくい場合、あるいはそういうことに直面する機会が少ない場合に、まわりもどうやって対処したらいいのかわからないと思うんです。単に見た目で障害がわかる、わからないってことではなくて、できないことがどれほど具体的にあるのかが、サポートに関係するのかなと僕は思います。

G:
私はまわりに少しはみ出た方とかがたくさんいるところで働いているんですが、私自身適切に手がいっていると思ったことは正直一度もなくて、常に多いか少ないか、どっちかという気がしています。
それは「人を理解するのは時間がかかるな」と働きはじめて思って、8時間働いて6時間しゃべっているようななかで、その人にほんとにしんどいときがあるんだとわかるのに2年かかったとか、すごく時間がかかることわかって、そのなかでやりすぎたこととか、足りないこととかは許してもらうしかないと思っています。顔が見えてるっていうか、その人がどういう人か、友達になってしまうと少々やりすぎてもまあいかと思える。ケンカして仲直りしようと思ったら、過剰なくらい何かして、「許して」なんてときもありますし、そういう時間がかかるっていうところはどうでしょうか。

秋風:
私は先ほど、まるで健常者が障害者に過剰なヘルプをしてるってきこえるようにいいましたけれども、実は障害者どおしだってそうなんですね。私は今杖をついていますけど、ついこの間まで、歩いてましたし、だからずっと障害者との関わりのなかで、私は介助者だったんです。今なってみると、過剰な介助をしていたかなと思うことがあります。何が適切かっていうのも全く個人によって違ったり、障害っていうのは本当に厄介で、個人個人によって違うんですね。だから、適切っていうのは、多分(そう簡単には)できない。それは人間関係でもそうかもしれないけれど、やっぱり時間もかかることだと思います。

田垣:
学校とかで、障害の疑似体験ってあります。でも、軽度障害を疑似体験するのは、難しいです。軽度障害の疑似体験をして大変さがよくわかりましたという人は、うそつきだと思います。だから、「どっちつかず」っていうのは、言葉でも伝えにくいし、疑似体験もしにくいと思います。

司会(門田):それでは時間もきましたので、長い間ありがとうございました。

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