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弱視は全盲よりしんどい?

もう10年くらい前になると思う。全盲の友人と二人で出かけた折の話だ。
いまでこそ点字を使い、白杖なしでの外出など考えられないボクだが、その頃はまだ、本に顔をつっこむようにして墨字を読み、段差に躓いたりしながらも杖なしで歩いていた。
駅前の歩道には無遠慮に商店の看板がせり出し、数えきれないほどの自転車が無秩序に放置されていた。ボクはそうした障害物とニアミスを繰り返しながらも、なんとか友人を誘導して駅へと向かった。
ここでは、弱視であるボクは介助者で、全盲の彼は介助される側である。こうした二人の関係は、ごくあたりまえのことのように思われた。

 ところが、駅にたどり着き、自動券売機の前に立ったとき、二人の立場が逆転したのである。
ボクは当然のことのように自分が切符を買うべきだと考えた。券売機にコインを投入し、目的の料金ボタンを求めパネルに顔を近づける。
けれど、ボタンに目をこすりつけんばかりにしても数字を読みとることができない。そこに記された文字は、ボクの視力にはあまりに小さすぎたのだ。
あやうく鼻で関係のないボタンを押してしまいそうになったそのとき、ボクの悪戦苦闘ぶりに気づいたのか、自分と代わるよう友人が声をかけてきた。券売機の前をゆずると、彼はすばやくパネルに指を走らせ、間もなくひとつのボタンを探りあてた。
当時、既に自動券売機の料金ボタンには点字が付されていた。なんのことはない。最初から点字の読める彼に買ってもらえばよかったのだ。

 まだまだ市民権が確立したとは言いがたいが、点字の認知度はそれなりに高まりつつあるように思う。それに比して、拡大文字をはじめとする弱視者に対応したメディアの認知度は極めて低い。それどころか、弱視者が、全盲者とは異なる独自なニーズをもった集団であることそのものが、一般にはあまり理解されていないように思われる。
視障者といえば点字と盲導犬しか思い浮かべることのできないような貧困なる想像力を、人びとが省みることは少ない。
そうした状況は、10年前もいまもそう大きくは変わっていない。
取り残された弱視者は、時に全盲者よりしんどい立場におかれるのである。

(『点字毎日』97.12.28+98.1.4合併号 26-27頁,毎日新聞社 : 原文点字)