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障害者は『五体不満足』に満足するか

秋風千恵

乙武洋匡さんが書いた『五体不満足』が三百五十万部も売れたという。反響は全く好意的で、この本自体に対する批判はあまり見当たらない。この本を読んだ人は、先天性四肢切断という障害を持って生まれてきたにもかかわらず、両親にも先生や友人たちにも暖かく迎え入れられて、明るく前向きで、生活を十二分にエンジョイしている彼の姿に爽やかなものを感じるのだろう。メディアのもてはやし方も大変なものでテレビでも彼の姿をよく見かける。

しかし、この本に感動するのは圧倒的に健常者の方ではないかと思う。障害者と聞いて触れたくない重いものを感じていたのが、障害者なのに屈託などなさそうに明るく爽やかな彼に出会ってカタルシスを得たというところではないだろうか。わたしにしても彼のキャラクターに好感を持たないわけではないのだが、ひとりの障害者として『五体不満足』には満足できない。

彼がいる場所は特別な場所である。障害者の誰もがあれほど恵まれた環境にあるわけではない。本の中ではあえて触れられていないがまず経済的に非常に恵まれている。これは重要なことだ。経済が解決してくれる問題は数多いのだ。まわりにいる人達にも恵まれてきている。彼の発言はこの理想的な環境に守られているからこそ言えることでしかない。

それだからだろう。彼の意識のなかで「社会」の二文字がすっぽり抜け落ちている。わたしがこの本に違和感を覚えたのはそこである。
とりわけ

(障害者との付合い方について)障害の状況などに応じて、特別な配慮を要することはあっても、人間同士のつきあい方として、「障害者だから特別に」ということはないのだ。
初めて出会った時必要以上の壁を感じてしまうのは仕方がない。しかし、時間がたっても、つまり、「慣れていない」という言い訳が通用しなくなっても、なおその障害者に壁を感じてしまうようであれば、それはその障害者側の責任であるとボクは思っている。そこで重要なのが人柄・相性といった問題であるのは健常者同士のつきあいとなんら変わりはない。
しばらく接していてもその人とはつきあいづらいと感じたら「障害者だから」と変な同情を寄せて無理につきあう必要はないだろう。そのときその障害者が「差別だ」などと寝言を言ったらきちんと教えてあげて欲しい。「アンタの性格が悪いんだよ」と。

と書いているくだりである。
「障害者はかわいそう」というイメージを払拭したいがための勇み足であり、社会を知らない若い男の子の暴言である。わたしは彼の言う「人柄・相性が合わなければ人とは付き合えない」という主張に異議を唱えているわけではない。障害者とは誰でも仲良く付合わねばならないなどと言うつもりもない。問題にしているのは、彼の意識のなかには健常者/障害者の谷間などないことだ。

わたしも先天性の肢体不自由な障害者として生まれた。わたしの障害は日常生活に大きく差障りのあるものではない。介助の手を借りないで生活できる。友人にも恵まれてきたし、経済的にもそれなりに恵まれてきたと思う。そんな環境の中でわたしもまた障害などものともしないといった発言をしていた。しかしいざ自立しようとして社会と向き合ったときはじめて自分の位置を知ったのだ。

二十数年前女性で障害者であるわたしには就職先がなかった。現在のように企業に障害者雇用率など適用されていなかった時代だ。自分という存在が社会にとって必要ではない存在として片付けられたような気がした。わたしは社会という壁をまえにして、後ずさりした。けっして明るくはなかった。男女雇用機会均等法が適用されてから女性たちの表情が大きく変わったと思う。それと同じように働く場所を得てからの障害者たちもまた明るい表情を手にいれた。当時とは格段の差がある。しかし、現在でも後ずさりしてしまうような状況にある障害者は少なくない。

「障害は不便であるが不幸ではない。」という言葉はわたし自身の実感でもある。しかし、障害はこの社会にあってはいまもって不利である。歩きにくい街であれば出かけられない障害者もたくさんいるだろう。無年金で生活しなければならない障害者もいる。雇用率がひきあげられたというものの、この不況で障害者を雇用しない企業もある。そういった政治というハード面の不備は、障害者に社会と切り離された場所を与えてしまう。その場所にいる障害者は物怖じするだろうし、後ずさりもするだろう。そんな障害者は性格が悪いのだろうか。その場所にいる障害者にとって「アンタの性格が悪いんだ」はやりきれない言葉だと思う。

社会の壁などという大袈裟なものではなくて、もっと私的な個人間の付合いに限定するとしても、やはりわたしはこの言葉を受け入れられない。彼は障害者と健常者は対等だと強調したいようだ。対等であることは望ましいことであるが、現実ではない。特別な配慮をしなければならない事を、わずらわしいと感じる人も大勢いる。特別な配慮を要する存在であること自体対等ではないという傲慢な考え方もまだ根強く残っている。

それでもさすがに「女性だから」、「障害者だから」を公然と理由にもちだすのはマズイと思われるようになった現在では、理由をすりかえて排除にかかる。そのときに使われる理由が往々にして「おまえ個人が劣位の人間なんだ。おまえ個人が悪いんだ」という言い方である。相手個人の責任にしてしまえば、排除は良心の痛みを伴わない。彼/彼女個人が悪いんだ、だから彼/彼女を排除することは差別ではないと解釈して安心して棄て置く。その場では彼の言う「時間がたっても、つまり『慣れていない』という言い訳が通用しなくなっても」という条件など容易に忘れられてしまうだろう。わずらわしい事からは遠のきたいのだ。そんな世の中のありように彼の発言はイクスキューズを与えてしまっている。

引用した文のなかでもう一点気になるのが、つきあう・つきあわないの選択権が健常者の側にあるかのような書き方をしていることだ。障害者が寝言を言ったらきちんと教えてあげるのは健常者の側である。この書き方では障害者が劣位だと読まれる危険がある。障害者にも選択権はあるのだから。

この本が超ベストセラーになったことに驚いて、こういったことを友達に書き送ったところ、彼女からは「この本が売れたことは『多数派はときとして少数派の一部の人間を選びもてはやすことで、それ以外の少数派をより狭い場所に追い込み排除する』という構図にあてはまってしまった」と書いてきた。そのとおりだと思う。「多数派は、彼の多数派/少数派の谷間を認めない楽観主義、谷間をも個人の努力で克服できるという楽観主義を耳に快いものとして読み、都合よくカタルシスを得て、結局は消費して忘れてしまう」とも書いている。消費され結局は忘れ去られるのではないかという危惧はわたしにも強くある。

彼がいまいる位置には否応なくつきあわなければならない他者がいない。向き合わなくてはならないものもまだない。しかし、そこからでは大きな構図は見えてこない。残念ながらわたしたちが今在る社会では健常者と障害者の関係はイコールではないのだ。

いまのところ社会を知らないで楽観主義に陥ってしまっているものの、障害者の側がまたひとり強力な代弁者を持ったことにかわりはない。消費され忘れさせてしまわないためにも、彼には自立したひとりの社会人として障害者問題を考え、語りつづけて欲しいのだ。

『そよ風のように街にでよう』 61号(1999年7月18日発行)より転載

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